異世界終末宣言 (作:屋鳥 吾更)

2年前ぐらいにやった「悪文を読もう」みたいな企画の本文

(跡地:https://ncode.syosetu.com/n1493fy/)がなろうのアカウントと一緒に爆散してたので手元にあったコピー貼っときます 身内ネタなので気にしないで下さい

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異世界終末宣言

作者:屋鳥 吾更

アニメ・漫画・ラノベとしてのサブカルチュアが、後100年続くために。

 

 

過去――アニメ業界に忽然と現れた、いわゆる「異世界もの」は、これまでの作品と一線を画していた。壮と大胆にして、背景の細やかさ、現実離れした価値観、キャラクターたちの素朴な魅力を兼ね備え、その世界は瞬く間に視聴者たちをとりこにした。

異世界ものの出現とは、そのように、これまで学園ハーレムラブコメディーや現代ファンタジーで塗り固められていたニッポン人の嗜好をガラリと変えた、大きな出来事であったのだ。

 

 

と、そんな前提から、このエッセイというか叙論文みたいなものは展開されていく。どうか今後創作活動をしていく「創作人」には一度読んでほしい。そんな内容である。

 

シュ旨

 

 この話をし始めるにあたって、まず閲覧者に知っておいてもらう必要のある、一つの(筆者における)疑問がある。

 

 それは、この10年にも満たないささいな期間に、どうして「異世界もの」と呼ばれる(主にライトノベルを媒介とする)ジャンルは勢力範囲を拡大していったのか。ということである。

 

 細かな考察はこの際はぶく。なぜなら筆者にはこの異世界ものというやつを当然至極に書き出すことをはじめ、なんの変哲もない日々のなかに着想することも、また世知のようにいずれ悟ることもありえないからだ。そういうふうに若干思考のたどりつきにくい側面から見れば異世界とは、筆者のように頭の固い人間の「外側」に存在しているのかもしれないが。

 

 さて、日ごろ世話になっている小説家になろう様のサイト上にこれ以上無意味な文面を載せることもはばかられるゆえ、本題に入ろうとおもう。

 

 ライトノベルに限らず、世にいう文豪の書いた小説や評論であろうと、アニメやドラマや映画といった映像作品であろうと、すべてこの世の運営において価値のないものである。人がいとなむ文化とは、そういう無価値の寄せ集めを、いかにして超自然的であると謳うかに懸かっているのではないか。それこそ。筆者など三文作家の代表格(とまで言うと、ほかの三文物書きに失礼であるか、)が時間浪費の果てにえがき出しているこの文章にも、人々に読まれることでようやく、価値と意味が生まれるのである。なかでもその大部分を占めるフィクション作品については、記述するまでもないだろう。

 

 

 ここで引用するために、筆者の崇拝する『魔法の力が消えていく』の執筆中、これを書くべきか、しかしこれは私情を含み過ぎている、と悩んだすえにエタったとある文言を、自前のPCの「作品化小説まとめ」ファイルからコピペしてきたものが下である。

 

 

「人の死、以上に、人を感動させるものがあると思うか?」

 

 

 こんな登場のさせ方は不服だった。名前も小説も無名なのだからしょうがないのだが。

 

 

 筆者は、ありていに言うと「異世界もの」が売れた理由は、大きな社会によって、切りつめられた価値観のなかだけで生きることを迫られた現代人――つまりわたしたちにとって、異世界という存在が「主人公が何ものにおいても正義」「戦う手段としての剣がある」「たやすく人が死ぬ」これらの特性を見せつけてきたためだと考える。そして、本文ではそれらについて論究していきたいと思っている。

 

主人公が何ものにおいても正義、という絶対悪

 

 筆者は「異世界もの」を、キャラ文芸だとは思わない。また異世界の所在と意義についても容赦しがたくハイファンタジーとも思えない。ゆえに、異世界ものとは、「異世界」というあらたなジャンル名をつけることしか処理の仕方がないものなのである。

 

 どのような時代においても、小説は大衆娯楽性だけではなく学問的・啓蒙的・徳目的な性質を示し、ときには作者個人の内側をさらけ出す自己表現の手段としても用いられてきた。そこに物語としての形があることを前提に、創作人たちはさまざまな手法で何ごとかを表現しようとしてきたわけだ。それは現代にあるものであっても同じ。文化としての一個をあたらしく生み出そうとする人間がいる以上、これから誕生するあらゆる作品は何かの意図や目的をもっていなければならないのだ。

 

 そのようなことを考えるとき、筆者はふと疑わしい気持ちになる。ではライトノベルとはなんだ? 自分がいま書いているもの(少なからず本文のことではない)とは、果たしてライトノベルに類えられるものだろうか? そんなことで知人に相談したりもする。知人は同じ創作人に限定される。どいつもこいつも今は無名だから、自分のしたいようにやっている。それで、かならずしも彼らのアドバイスは的確とは言えない。すぐに雑談に逸れる。しかし、そのようなごくごく自然でありふれた日常に接する自分のなかに、日常とはあきらかにことなった考え――それは昨今のポップカルチュアルな流行を否定するものであったり、旧作アニメと新作アニメを観比べて今後のアニメ業界を心配するものであったり、色々とする――が生まれて、浮かび上がってくるのだから、「ああ。自分はやっぱり、創作をしようとする人間なのだな」という自覚にいたるしかないのだ。今時分ネットサイトのうえに掲載される作品をあまねく一つずつ渉猟してその結果に、小説とライトノベルを完全差別することなど自分にはできないから、もしかして『10(テン)』とか『いつかの心地』がライトノベルに類えられるものでなかったとしても、筆者には自分の作風を変えることができない。すべてそういうことなのだ。

 

 

 話をもどそう。で、最初に「異世界もの」が売れた理由のひとつに主人公絶対主義があると書いたが、それはつまるところの俺TUEEEEを指すのではなく、「あたかもその世界が主人公を道徳の見本としているかのよう」だという意味になる。

 

 

 よくある展開であると、車か列車に轢かれた(もしくは轢かれかけた)男性が西洋かぶれの異世界に転生あるいは転移し、ほんのちょっとした事件をきっかけに秘められし魔法の存在に気づいたりメインヒロインのパツキンチャンネーとかと知り合ったりして、ちょっくら俺冒険してきますわぁ、俺が君を守るからさっ、うわあああ!(たぶん風呂とか覗いてる)なんやかんやあり、物語は続いていくのだ。近ごろは女主人公も増えて来た(ニーズの拡大が原因か?)。それにしても、だいぶハショった。そして、どれだけ筆者が異世界ものに辟易しているのか理解していただけただろう。気分を害されたならNo Goodのうえツバでも吐きかけてもらって結構である。そうでないのなら、まだグチは長くなるが、おつきあい願いたい。

 

 近年よくみられるようになった異世界(転生)作品の大半は、アニメ業界が進歩し始めた1990年代~2010年代にテレビの前で育った若者(筆者の想像では特に男性が多い)たちによって生み出される。そのため多分なパロディー描写を含むもの、いわゆるラッキースケベを全面に押し出そうとするものなど、多様ながらにどこかジャンルが閉鎖的である。書き始めのころはとくに主人公が作者自身にもどりやすい。また学問的・専門的なワードや設定を用いようとすると膨大なデータを相手に原作プロットとにらめっこするハメを食らってしまうから、世界観もおのずとありがちなものになりがちなのだ。

 

 

「あたかもその世界が主人公を道徳の見本としているかのよう」

 

 

 その言葉に秘められたるものは、すなわち、思春期の少年少女のフラストレーションのはけ口である。社会という巨大な組織の工作員である親・きょうだいたちからの重圧。人格否定味をにおわすフレーズを禁じ、報道やコミュニケーションに道徳という名のスモークをかけうる社会通念の存在。あれはダメ、これはダメとばかり繰り返す没個性的な教育方針。すべて、それらとほとんどかかわりのない筆者にさえ、ストレッサーのほかにありえようがない。ましてや多感な時期の少年少女にとって、それらは(自死、なんてごまかしようのない)自殺に走る動機にもなりえてしまうのだ。

 

 ここまで壮大な規模の話題にひろげることもどうかとは思われるが、そういったびみょうな心情をかんたんに解消することができるのは、アニメとかラノベという娯楽に限って見ると、やはり「異世界もの」しかない。異世界は、先述したように筆者のような凝り固まった知性の「外側」にある、精神的に未熟な少年少女たちにとっての救済だ。だから本当は存続していったほうがよいジャンルなのかもしれない。

 

 

 いや、「異世界もの」は、なくなるべきだ。

 

 だいたいに、ラノベというものは絵師のちょっとした挿絵とレーベルの金看板があるというだけで、漫画の単行本がへたをすれば2冊買えてしまえるような値段で売られているし、あげくそれが10冊以上の長編であったりする。ミリオンセラーになる原因など、どうやってすれば理解できる? いま筆者の書いていることが多くに納得されるとは考え得ないが、それでも現実を見てほしい。異世界でハチャメチャをする主人公の気分を味わって、いかに爽快であろうか。いかに痛快であろうか。だがその世界観は全部作者の妄想だとか夢見がちな理想にすぎない。本当に、自分がいまから購入しようとしているラノベ1冊が、大枚をはたく価値のあるものなのか。一部の賢明な日本人ならすぐにも気づくはずだ。いや、気づかなければならない。

 

 こほん、ええ。

 

 よく謳い文句にされる「最強」や「最弱」、「異世界」という言葉そのものであったり、長ったらしく説明的な(この筆者には言われたくなかろう)タイトルだったりするファーストタッチが、まずもって異世界作品は没個性的だ。タイトルというものはかならずしも簡潔であればいいわけでないにしろ、作者にとって、自分の作品がいかに大事なものなのかを読者に知らしめる形式をとっていなければならない。他人の目に媚びへつらうようなもの、内容説明的なものではだめだ。

 

 そして、かならず主人公に「世界に影響をもたらす力」が付与されている。これもかえってマイナス。ハイファンタジーなら、というか、アクションや冒険ものには主人公の潜在的な能力やその場だけの機転が欠かせないのに、強すぎる力を誇張しすぎるせいで、(むだに)大勢出てくる仲間たちも事実上お払い箱ではないか。異世界もの特有の「特別に与えられた力をあえて使わない」という部分も、なんだか主人公の判断が客観的すぎていてひじょうに感情移入しづらい。読者に感情移入させる気が端からないのなら徹底して主人公をひどいめに遭わせるかするべきだけれども、そういうわけでもなく、なんだか気の抜けたストーリ展開が続いている。結局主人公たちはどこへ向かっているんだ、原作はいつ終わるんだ、とただただ不安に駆られるだけの読者たちを思うと、他人ごとながら腹が立ってくる。

 

 きわめつきの「あたかもその世界が主人公を道徳の見本としているかのよう」な描かれ方である。誰でも、筆者も、文章作りにおいて巧拙はあるものだから、せめて作者本人の境遇や体験・考え方をフィードバックした独自の手法を見つけ出してほしい。「異世界といえば……」なんて、考えているまいな。異世界ジャンルの存在価値とは、前述したみたいに現実の固定観念にしばられることのない自由度の広さだったはずなのに、異世界はもれなくレンガ造りの家が立ち並ぶ中世の街並みとか魔法があるとかいう固定観念を持ってしまっては、愚の骨頂というものだろう。世間一般の作家たちがどうか知るよしもないが。

 

 

 これらの理由により、異世界終末宣言第1部分は完全に成された。

 

戦う手段としての剣がある、という自足

 

 筆者は日夜、いかにして昨今のサブカル業界にみられる封建的な体制を切りくずしていこうかと一人思案している。それがあまりに思い上がりのひどいことだと、自分のように何の実業的成果もなしていない者がそんな大業をなせるはずもないと、わかったうえで。それくらい目に見えて(特筆するならアニメ・ラノベという)日本のカルチュアの現状は腐爛しているわけなのだ。

 

 

 それではさっそく手をつけていこう。

 

 

 「イキり」厳密に言うなら、「はやりのファッションやカルチュアに目を暗ませ、ボキャブラリも知識・言語を深めようとする向学心もない幼稚だが声の大きな仲間たちと手を組むことで、絶大な力を持ったように錯覚し、イキがる人間ども」というもの。本文を読んでもらっている読者様の中に、一体どれほどの人数、このような人種を嫌悪している方がおられましょうか。できれば全員であることを願いたい。え? 前々から、気どって難解な語句をならべたててきた筆者のほうが相当なイキりじゃないのか、ですって? お恥ずかしながら、それは否定し得ません。なぜならジャパニメーションを信奉する一人である以上、アニメやその原作たちへの愛はひととおりではありませんし、このように述べる言葉すべてに熱がはいってしまうことはまったく仕方がないのです。それを承知のうえでお読みいただけると有難いです。

 

 つまり今度の題目の主旨とは、筆者のようなキモヲタが、こういった悪質なイキりたちにどうやって対抗しようというのか。通常の理解や言語がつうじないのだからどうすることもできない。そういうイヤな昨今の世のなかに比べて、異世界には魔法や剣・銃など(正直いまどき、まともな中高生が思いつくにしてはガキっぽ過ぎる気がしないでもないが、)対人武器が明確に存在し、かれらと肩をならべる形で、自分の力を誇示することができる。ラブコメとか女子の価値基準わかんねえから面白くねえわ。……なんて、これも、俺TUEEEEに次ぐ人気上昇の要因なのではないか。そういうことだ。

 

 こう長々とかたっくるしい文章ばかりでは楽しくないので自虐に走らせてもらうが――筆者が過去連載していた(現在永久休載中の)『OLDANDNEW GREATWAR/オールダンニュー・グレートウォー』という作品では、髪が白い以外にとくに個性のない主人公・楠森バジルが、ある日ナゾの美少女から襲撃されたことで「多量の血液を有し、それが絶えないかぎり死ぬことがない」という能力に目覚め、これを知った「新人類」と名乗るテロリスト集団から仲間になることを強要される。そこで「自在剣」という血液を噴射して刀身に代える、バジルの能力を最大限生かす武器を支給され、彼は2刀流で敵対する別のテロリストたちとの戦いの日々を送っていく。……ああ、要点だけ書くのだけでも疲れる。用語多すぎ。ちなみに宣伝する意図はないなぜならお粗末な作品だったから。これを着想するきっかけとなったのは、筆者が地元の映画館で観たお兄様劇場版である。ああいう込み入った設定の超大作を書きたいと、オレの厨二心がザワついたのだ。さらにいえば武器のイメージは、胸の三巴紋が特徴的なロボットに乗る主人公を声優柿原氏がつとめた無双系ロボアニメから得たし、オルグレ(初めて略した)の途中で出てくるHarderというロボットというか女子なんてバーストリンクしていそうな外見だった。筆者ももういい年なので名作にインスパイアされたとは言わない、堂々とパクったことを認めよう。明確にそれを意識していたので、これは糾弾されても返す言葉がないのだ。――さてそれはいい。要するに堅固な宗教や思想をもたなかった当時の筆者は、問題解決に会話ではなく戦いにおける決着しかもちいようとしなかった。それは単純に表現力がなかったせいでもある。そこそこ辞書は読み物だと感じている自分なのでボキャブラリはとりあえず充分だったはずなのに、プロットによって定められたストーリを守り切ろうとするあまりに、描写も展開もセリフ回しも単調になり、且つその潤沢な語彙で、キャラクターや世界観をほり下げることもなかった。最低である。こんなものは小説になく、ただの設定資料だと酷評されたほどだ。けれど今となってはそれも正当なのだと自覚している。

 

 

 すべては、この目で、すくなくとも3年以上は、同様に設定資料化した異世界ファンタジーや現代アクションものを見て来たからにほかならない。

 

 

 去年、どこの馬の骨とも知れない気持ちの悪い男に「自分も小説を書いている。ラノベ作家志望だ」と迫られ、しばらく付き合っていた。筆者はラノベ作家志望ではなく単にアニメ化するための原作を書いているだけなのだが、そんなことはともかく男はその口でたしかに「ラノベっていうのは、自分が気に入ったアニメとかから気に入った(キャラや世界観などの)部分を持ってきて、それを骨組みにして作るものなんだよ」「ラノベで一番大事なのはストーリに決まってる」と言った。はきけがするほどよく記憶している。そして、そんな大それたことを公言しておきながら、自分の小説だといって手渡してきたものは、それこそオレの汚物をぶっかけてやりたくなるほどの汚物っ……失礼、内容だった。

 

 これはよくおぼえていないのでテキトーでよろしいだろうか。もらったテキストもとうに絶滅させたし。

 

 えっと、なんか巨大な鉄塔がおそらく東京だろう町のド真んなかに現れて、その下におっきな穴ぼこが開いてて、そっから得体の知れないモンスターが這い出してきた。不思議な力に目覚めた主人公(名前はシンプルすぎてかえって忘却)は俺の世界の平穏を守るべく、戦いはじめる。

 

 本当にテキトーで申し訳ない。でも頭にないんだもの。それに、上を読んだ方の全員が「絶対(話を)盛ってるだろ草」みたいにきっと思われるだろうが、冗談抜きで、このとおりだったのだ草。言葉もテキトーでない部分はほぼ全部そのままだった草。42字×34行の書面上にほんの10行ほどで綴られていた草。いや……これ以上書くとほんとうにただの悪口みたいになってしまうので、このへんでやめておく。

 

 

 (以降、わかる方には、かの絶剣が大勢の敵をまえにして、仲間に放ったあの言葉を思い出しながら読んでいただきたい)

 

 

 今の世はコミュニケーション力が必要とされている。たとえ仕事の現場でも、人間関係のあいだでも。

 

 われわれが生きているなかでどれくらいの数、肉体的な戦闘によって解決できる問題があるだろうか。まあたいていは上下関係とか経済力でどうにかなるよという意見もあるかもしれない。異世界ものの美点は、つまりそういう部分にある。人同士が承認し合って、魔法・剣・銃などの武器を使っての交流をよしとしている。これはたしかに幼稚かもしれないが、だれもが決められたルールのなかで実力を競っているという「公平さ」の面においてすばらしい特性ではないか。スポーツに野蛮さという香料を少し足したようなものだ。下の者は上の確実に力ある者に忠誠を誓い、上の者(昔の作品はいざしらず最近は社会的弱者が転生・転移してくるケースが大半か、)はそれに応えることで自信を保つことができる。目に見える利害関係が魅力的ではないか。

 

 もっとも、これは偏見なのであまり明記しない。ネット社会が完ぺきに整備された現代にもかかわらずネットトラブルが顕著に取り上げられるようになった原因が一切、前記のことに関係しないと、言い切ることができないのはもうわかってもらえていることだろう。

 

 もしも本当にその人が(今これを読んでいるあなたかもしれない、)書くべきものは、なんであろうか。つまり、自分にしか書けないものはなんだ? 執筆の直前にでもいい。一瞬考えてみるべきだと思う。「知名度を上げてから書きたいものを書けばいいじゃないか」そんな大人みたいなことを言える人間で、プライドを捨てて大衆向けのつまらないものをあえて書くというプライドがあるのなら簡単には否定できない。しかし、それで仮にも作品が売れたとしたら、巷の目に触れることで絶対的に「もう使い古されたジャンルだ」と決めつけられて、結果たくさんのなかの一つになり下がってしまうだことだろう、あっけなく、時間をかけずに。唐突だが自分はVirtualYouTuberをむしろ愛好している方だが、へたに流行のゲーム実況や萌え路線に走りすぎれば5年と持たない気がして、毎日ヒヤヒヤしている。メンバーになりたくともこの不安感からなりきれていない(だからにわか仕込みと言われて結構)。このことから綺麗事を言うようだが、今すぐに有名にはなれなくとも、自分の弱みや趣味をネットを利用して忌憚なく発信し、なるべく長期間続けていくことが、自分らしさの真なる表現になると筆者は提言する。人間の個人性つまりその人らしさとは「歴史」にしか見受けられない。絶えず続けることでしか、自分を誰かに知ってもらうことはできないのである。

 

 

 だから、どうか武器をとって戦うのではなく、自分がこれまで獲得したり磨き上げたりしてきた言葉や考え方で、他人と向き合ってほしい。またそういう作品が世のなかで生きていってほしいと思う。ゲリヲンやから始める異世界生活のように。すごく私的でまたしても最低な言い回しになるが、自分が経験したこともない暴力をフィクションであえてもちいたりネタにしたりする人間はいなくなってほしいと思う。どうしてもそうせざるをえないときには、どうかキャラクターをぞんさいにあつかわないでほしい。登場人物たちは原作者の人格の一端から生じているのだから、かれらの言動や行いは原作者そのものによってしか未来につながらないわけなのだ。

 

 たびたび、試読してくれた知人たちは筆者の小説が読まれない理由を「動かないから」と云う。それはまちがっていない。伝えたいことだけを書いているせいだ。余計に、パロディーや、むだなセリフのやりとりはできるかぎり排除している。それでもアニメ化できると豪語する理由は、キャラクターたちがつねに筆者の脳内で、いきいきと活動しているからなのだ。かれらはひどく無口で伝えるのがへただから、無理してこちらが解釈を書こうとする必要はない。読者のために書いているのならそれは大きな欠陥となるが、自分の創作のためならば価値基準を徹底すべきではないか。

 

 

 そういうことだ。長くなってしまった。あいだに挿絵でもはさみたいくらいだ。第1部分と比べると約1000字ちがった。あのキモい男の自称小説を上回ってしまっているではないか草。

 

 

 以上により、異世界終末宣言第2部は終了する。ようやくエッセイらしくなってきた。

 

たやすく人が死ぬ、それが絶対的客体美

 

 

 人の死以上に人を感動させるものはない。

 

 

 実名を出すことは叶わないが(というか、世論的・丸C的に敵うものか!)、ロマン時代を舞台とした某アクション漫画原作のアニメが昨今はやっている。筆者もテレビの前でリアタイ視聴していた口だが、正直あそこまでの熱狂ぶりを喫する内容ではなかったように思う。たしかに現実、家族愛や仲間を助く大切さをうたって、心にしみるアニメだったことは否めない。しかし、果たしてどうだろう――こうも人間を殺す必要はあるか?――具体的にいうと、モブキャラ・サブキャラのたぐいまでもいちいち掘り下げてその死を描写するのはなぜか? そのような疑問を持たざるをえないものでもあった。一方世間は、やれどいつが強いだとか、ストーリの作り込みが凄いだとか、作画が神がかっているだとか(これは本当に蛇足。サブカル知識の浅薄さをさらしているようなもの)、いろいろ騒ぎ立ててくれているようだが、毎週毎日個別のジャンルと声優陣で垂れ流されるアニメらを同時間帯に総覧していれば、当作がずば抜けておもしろかったという感想が浮かぶはずもないのである。テレビ視聴者とはもはや演者だ、次々と観るものへの情感や反応を切り替えていかなければならない。……もっとも、あまり感情的になって作品を拒絶することはしたくないのであと数行でやめるが、筆者のようにつけ上がったキモヲタたちに当作品の悪評が少なからず出回り始めている事実を見過ごしてはならない。ひどくなれば制作会社や原作者に風評被害がおよぶ可能性もある。ブームになるのはかまわないが、どうも一般人たちに作品の取りあつかいを今いちど考えて直してほしいというのが所感だ。

 

 

 さあて! 前置きはこのくらいにして、本題にいこう。ちなみにサブタイトルの物騒さと今までの悪句雑言の嵐は今回できるだけ再現しないようにしまするので、安心して読み進めていただきたい。これが最後の項であるため、読後感はさっぱりなほうがいいだろう。

 

 

 人の死、生死、生涯。それらを得意げに語る大人は少なくない。まだ経験したことのないもの、にわか仕込みのもの、読書ではじめて知ったものをあたかもマスターしているかのように話すのが大人はうまい。みえすいているけど。だから彼らをみとめてあげて、説教されるのがうまいのが子どもだ。よく説教される人はそれを誇りにしたほうがいい。説教している側はとても気持ちいいから、説教されるのがうまい人はだれにも好かれる。

 

 ともかく、将来とか死とか目に見えないし聞こえの重たいものはしばしば、サブカル上の表現において軽視されている。いつか書いたと思うがキャラクターはみな作者の人格の一部から発しているのだから、作者が死とかそういう部類のものに詳しくなかったり興味がなかったりすれば掘り下げが甘くなるのは当然だろう。これの問題点はすなわち、読者や視聴者側の受け取り方になんの配慮もされていないということだ。名言ふうにいうと「創作物は作者にとってつねに現実めいて見え、主観的だ。だが、第三者にすれば単に情報であるだけで、客観的でしかない」ということだ。ううむよくわからん。迷言ふうの間違いだったか。ようするに「人の死以上に人を感動させるものはない」という↑にあった言葉のとおりだ。これは『シュ旨』にもあった、筆者の好きな言葉ランキング第1位だ。第2位はない。というのも、萌え系アニメも戦闘アニメもパロディーアニメも最低限の有名どころを押さえてきた筆者はいつしかこの言葉にたどりつくくらいキャラの死に涙した。とくに天才だーまえの作品では(ループするとわかっていながら)何度も。たとえ二次元であってもキャラクターの死による喪失感は無条件で感動を呼び起こす。それを主人公の挫折・苦悩・成長につなげることが目的だったり、作者自身の憎らしい立場(親・クラスメート・職場の同僚・政治家など)を貶めることが目的だったりするのなら合点がいく。良心も憎悪も、だれもが持つべきものだからだ。

 

 

 生死・生涯は自分の一度しかできない体験であり、同時にそれは眠りのように、自分の記憶では掌握することのできないものである。だからこそ、生存を、死別を話題に取りあつかうとき、人は安易に感情的になりがちなのである。

 

 

 筆者のゆがんだ精神面をさらしたところで、ようやく異世界ものに言及するときが来た。いや、実を言うと、筆者がこの最終章を執筆しようとおもったとき、本気で「たやすく人が死ぬ」サブカル異世界ジャンルしかないと思い込んでいた。これをちかって撤回する。気づいた発端は異世界だが、この平安時代にあまねく生まれる漫画やアニメやゲームやドラマや映画は、そのどれもが「たやすく人を殺す」。またそこに作者の悪意がないのがおそろしい。みずからSNS活用や動画配信をとおして名を上げようともくろむ若者たちは、それがフィクションであるというだけで人の生き死に・性差・価値をなんとも思わないで玩んでいる。そうだろう? 本当に戦争とか身内・ペットの死を経験したものは、このんで創作に生き死にを持ち込む傾向があるが、それは自身の負の感動を芸術に昇華させんとするすばらしい行為にほかならない。だが今のサブカルチュア(特にラノベ・漫画など)の発展を左右するのは10~20代の若者だ。戦争も知らなければ、自分専用にカスタマイズされたスマホで見たくもないものは視界からかんたんに排除できる。そんな彼らが決してニーズを発信するのではなく、みずからを表現したり不特定多数の人間に認められたりすることをこのむわけで、人間の生死について深い洞察のある作品が品薄になるのは道理なのだ。

 

 特例でいえば去年の秋アニメだったか、非現実的なサスペンスものがあったが、あれは純粋にすごかった。筆者の想定する『塔』の理想世界に近い新域思想、最終話目前の善悪に対する侃々諤々の議論の描写、一人の女がもたらす現実味と幻想味それぞれの色の死etc……斬新だから、ではなく、独自だからおもしろかったと思う。死で遊びまくっているくせにこちらに一切の同情をゆるさず、一方的な情報操作と考える機会をかの作品は与えてくれた。まあ個人的には煮え切らないエンドだったなと感じたが、原作と抱き合わせであったことを考慮すれば違和感はないだろう。タイトルは出せないが、観ていないけど心当たりのある人はぜひに。意志のよわい人にはすこし過激かもしれないが一見の価値ありと筆者は断言する。

 

 

 さて、いったいいつになったら読後感はやってくるのだろうと思った読者の方々。この七面倒な筆者のエッセイに最後までつき合っていただけたことに、心より感謝を申し上げます。

 

 こう言ってはなんですが、いわば『異世界終末宣言』とは、ニコ動時代ともいえるサブカル全盛期を今世に取りもどしたいと願うすべての人々に向けて、反逆のきっかけとしていただきたく、執筆したものなのです。だから悪意しかありません。その悪意の渦に立ち向かい、ここまで読んでくださった方を勇者と見なし、魔王屋鳥 吾更はあなたがたに全霊の敬意を払います。つねづね思うのですが、丁寧語で書かれた文章というものは結局自分以外の誰かに読んでもらうことが目的なのではないでしょうか。そういうことです。最後は最大ボリュームで、と定番で決まっておりますゆえ、順守させていただきました。すみません。これで失礼します。あぁけして高評価などなさらずともかまいませんので、どうか、順風満帆なポップカルチュア時代が再来するように、ともに祈ってやってください。もしくは新たな創作にいそしんでくださいませ。隙あらば、私めの駄作をよりいっそうの駄作にするような、すばらしいものを創ってください。ただそれだけです。三文作家からでした。